お盆休みに帰省した際に、母がいつも通り「城ヶ島の雨」を歌っていました(笑)。
ですが、突然「赤い靴履いてた女の子」のその後が分かる?って聞かれて私は横浜市民なのに、分からなかったので、母から大体のことは聞きましたが、何だか悲しい運命だったようです。。。
山下公園に近い場所では赤い靴の女の子のバスが走っていますし、山下公園の赤い靴の女の子の銅像は沢山の方に愛されて人気のスポットになっています。もし童謡の「赤い靴の女の子」が実在したのならば異人さんと一緒に海外へ渡り、幸せに暮らしていたのだと思っていましたが、どうやら違った様でした。
童謡「赤い靴」
- 作詞:野口雨情
- 作曲:本居長世
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える
生まれた 日本が 恋しくば
青い海 眺めて いるんだろう
異人さんに たのんで 帰って来い
この歌のモデルになった女の子は、明治35年(1902年)静岡県静岡市の日本平の麓の村で生まれた「岩崎きみ」さんといいます。父親不明で私生児だったそうです。母親の名前は「岩崎かよ」さんといいます。「きみ」を生んだのはまだ18才で未婚の母でした。既に両親は亡くなっていて、身内はいなく大変辛い思いをなされたようです。
その後母子は北海道の函館に移住しました。そして母「かよ」が土産物店で働いている時に「鈴木志郎」さんという男性と知り合い、まだ幼い「きみ」がいることを承知で「鈴木志郎」さんは「かよ」と結婚します。
暫くして、夫の「志郎」さんに「平民農場の開拓をしよう!」との誘いがあって、その方面に行きたかった志郎さんはその誘いに参加することにしました。しかしそこは未開の土地。寒さが厳しく荒れた大地で狼や熊もいるような危険な所だったと。。。。食料も充分確保出来るか難しい場所です。そんな場所で病弱な幼い「きみ」を連れていけるのか夫妻は悩んだそうです。でも偶然、知人からアメリカ人宣教師のチャールズ・ヒュエット夫妻が養女を探していることを知りました。母親の「かよ」は、こんな過酷なところでは「きみ」は死んでしまうかもしれない。それよりは宣教師夫妻に「きみ」をあずけたほうが、「きみ」は幸せになるのではないかと考えたそうです。随分悩んだ末に、泣く泣く「きみ」を宣教師夫妻に託することを決心したのです。
これが、歌で「異人さんにつれられていちゃった」になるのです。「きみ」はそのときまだ4才でした。
●幼い「きみ」が、異人さんに預けられた後は?
明治38年(1905年)、「きみ」の父母は北海道の羊蹄山近く、現在の留寿都村(るすつむら)に開拓民として入植しました。しかしそこは予想以上の過酷な環境と労働でした。ここでの農場団は結局苦労の末、その後解散してしまいました。
そして「志郎」と「かよ」は札幌へと移動します。志郎は新聞社に職を見つけ、そこでこの歌を作った「野口雨情」に出会いました。野口雨情は夫婦と親しくなって、「かよ」は野口雨情に、これまでの苦労話を話しました。自分の子は今頃アメリカ人の宣教師に連れられてアメリカにいて、幸せに暮らしていると思うとの話でした。
野口雨情はこの話を聞いてその後イメージを膨らませ、「赤い靴」を大正10年に雑誌に発表しました。
でも本当は「赤い靴の女の子」は、異人さんに連れられて行かなかった。。。それが分かったのはこの歌が作られてからずーっと後の昭和53年(1978年)です。
北海道のあるテレビ局が、この歌の由来を追いかけているうちに分かりました。昭和48年(1973年)に北海道新聞にある投稿があって、その投稿をした方は、「赤い靴の女の子」である「きみ」の義理の妹「岡その」さんだったのです。「その」さんは「きみ」が宣教師にあずけられた後に、志郎とかよの間にできた「きみ」の妹でした。その投書で自分が生まれる前に、異人さんに連れられて行っちゃった姉の「きみ」が、まだ生きているのなら、なんとか会いたいと書いたのです。そしてこの記事がきっかけとなり、北海道テレビのあるプロデュサーが「きみ」の消息を追いかけました。「きみ」が転々とした各地、アメリカまで「きみ」を探し続けました。
そしてついに真相がわかり、昭和53年(1978年)テレビで真相が伝えられました!
●「赤い靴の女の子」のその後の真実
宣教師夫妻は、「きみ」を引き取り後、我が子のようにかわいがりました。しかし「きみ」には病魔が忍び寄っていたのです。それは、その当時不治の病と言われた結核でした。そんな状況のときに、宣教師夫婦に、母国アメリカから帰国命令が来ました。病の「きみ」を、長い船旅でアメリカまで連れてゆくのは、とてもできない。しかし帰国命令は守らないといけない。
宣教師夫妻はやむなく、彼女を東京の麻布十番の同じ系列協会の孤児院に預けて、辛い思いでアメリカに行ったのです。
そして「きみ」は孤児院で暮らし、病床のまま明治44年、9才の短い生涯を終えたのです。お母さんと分かれて5年後のことでした。赤い靴の「きみ」は今、東京・六本木、鳥居坂教会の共同墓地に眠っています。この鳥居坂教会の近く、麻布十番に平成元年(1989年)に、「赤い靴の女の子」である「きみの像」が建てられました。この像の台座は募金箱になっています。募金は世界の恵まれない子にユニセフ等を通じて寄付されているそうです。
北海道に住む母「かよ」は、死ぬまで自分の娘「きみ」は、宣教師夫妻と一緒にアメリカで、元気に暮らしているものと信じていました。だからこそ「きみ」の妹の「岡そのさん」が、後に新聞社への投稿で、姉の「きみ」に会いたいと書いたのです。 また雨情もこの歌の作詞する時に、「きみ」の真実を知っていたならば、童謡「赤い靴」が生まれることはなかったかもしれません。
●赤い靴の「きみちゃんの像」は全国にあった!
赤い靴の女の子「きみ」の像は、上記の麻布十番のほかに、生まれ故郷の静岡県日本平山頂、歌詞に「横浜の波止場から」とある横浜の山下公園、母「かよ」と父「志郎」さんが入植した開拓農場の場所である北海道留寿都村 、かよさん夫妻が晩年を過ごし、そのお墓がある、北海道・小樽市の運河公園にあります。また新しくは、平成 21年(2009年)に6つ目の像が、かよさんたちにとって初めての北海道の地であった函館にも、開港150周年記念として出来ました。
さらに平成22年(2010年)には、父親「志郎」さんの故郷である青森県鰺ヶ沢町に「赤い靴の女の子記念像」が7つ目の像として完成しました。
像として一番古いのは1979年に設置された横浜、山下公園の像になります。また像というにはこじんまりしていますが、人々が集まる賑やかな横浜駅南口に、1982年、「赤い靴の像」が設置されました。そして横浜駅の改良工事に伴い、2010年にこの像は横浜駅中央通路に移設されました。横浜駅の像を入れると、全部で8つの像があることになります。上記の像の中には、「赤い靴の女の子」だけでなく、母親と一緒の像や親子3人の像もあり、それぞれの地方の、「きみ」とのゆかりに合わせて、像は作られています。
父親「志郎」の出身地、青森県鰺ヶ沢町には、親子三人の像が仲良く設置されています。「きみ」は赤い靴を履いています。
そして、2010年にアメリカ、カリフォルニア州の南部、サンディエゴ市に「赤い靴の女の子の像」が、横浜開港150周年と銅像建設30年、横浜市とサンディエゴ市の姉妹都市50周年(2008年)をきっかけに、サンディエゴ市の海辺の公園に設置されました。このアメリカの像も入れると「赤い靴」の「きみ」の像は全世界で9つ!
「赤い靴」の「きみ」ちゃんへの愛着がかなりわきました。
山下公園には他にも童謡の話がありますし、話が長くなってしまったので、山下公園の話は次回へ持ち越しますね。。。